FREEZE!外伝 第一章
「名は体を表す。」という言葉がある。ここに「千夏」という名の少女がいる。この名を聞いてこの少女にどんなイメージを思い浮かべるだろうか。その辺は想像に任せるが、たいていは……
「なんで、うちの親ってあたしにこんな名前をつけたんだろ。」
夏の香りが混じってきたそよ風の中で千夏は呟いた。暦の上ではすでに夏。そう、もうすぐ彼女の名前と同じ季節になるのだ。とは いえ彼女──佐々木千夏にとっては夏は大嫌 いな季節であった。
泳ぎはまるでダメ。いくつかを除いてはほとんどのスポーツ、特に球技は破滅的な下手さ。そして最大の理由は暑いのが大の苦手だ、ということである。世の中には暑がりという人種がいるが、そんなもんとは比較にならないほど暑さに弱かった。一時期は雪女の生まれ変わりか、と考えたときもあったが、そんな冗談を抜きにしても暑さにとことん弱かった。なのに名前は「千夏」。完全な名前負けであった。
その逆にウインタースポーツに関していえば(自称)オリンピッククラスの腕前。寒いのは大得意で、バナナで釘が打てるほどの寒さのなかでアイスを平気で食べられるほどの強者であった。
それでも名前は「千夏」。これで夏の真っ盛りに生まれたのなら理由も解りそうだが、彼女が産声を上げたのは冬のまっただ中、しかも寒さが厳しいといわれる二月であった。疑問に思っても不思議ではない。 昔、千夏は母親にその理由を聞いてみたことがあった。そしたら「寒い日に生まれたから名前くらいは暖かくしようと思って。」と寒がりな母冬美は答えたものだ。そんな風に笑っていた母も…… 元気に存命している。しかも夏が近いからはしゃいでいるフシもあると千夏は邪推している。「ふう…… それにしても暑い。」
セーラー服の胸のボタンを一つ外し、二つ目を外そうとして手を止める。一つ外しただけでも見る角度によってはきわどいが、二つ目にまで手を伸ばすとその角度が大きく広がってしまう。暑さに対する我慢と羞恥心をはかりにかけながら学校からの帰り道を一人とぼとぼ歩いていた。
ポニーテールにするにはやや短いが、しばれないほどでもない長さの髪を今日は真っ直ぐ下ろしている。度はあまり入っていない眼鏡をかけているが、それでも鏡を見て自分が ちゅうちょ 美少女の部類に入るだろうと躊躇なく言えるほどの容貌の持ち主である。
容貌のことはどうでもいい、としよう。そんな作者の思惑もよそに、千夏はブツブツ「暑い、暑い。」と呟きながら歩く。この日は確かに暑かった。なんでもどこぞの高気圧がどうとかで真夏並の気温になったのに加えて、この時期ではまだどこの学校も夏服にはなってなかった。そんな状況が重なって、一日中千夏は「暑い。」と言い続けることになった。
太陽はだいぶ西の方に傾いていったが、まだまだ夕暮れの気配すら感じられない。
「暑い。」
そういえば、この言葉、今日何回言ったんだろう? ふと考える。三桁は確実よね、四桁は…… 三時間で十秒に一回言えば千回にはなるわね…… これは…… いったな。
と、くだらない計算をしながら帰り道の途中にある、鬱蒼としたしげみのわきを通る。その時、気のせいかも知れないが、うっすらと涼しくなったような気がする。
「…………?」
ふと足を止める。体質上、気温の変化には敏感だった。
「なんだろ……?」
〈暑い……〉
ビクッ。
不意に聞こえた……いや、厳密にいえば感じた、というのが千夏の感覚だった。音を介さず、直接頭に響く「声」であった。さすがに「そら耳かな?」と疑ってしまう。声の正体を確かめるべく、千夏は耳を澄ませた。
〈暑い。〉
また聞こえ……いや、感じる。けっこう神秘的なシチュエーションね、と千夏は思った。ひんやりとした空気のなか、しげみの奥から心に直接響く声…… どこぞのファンタジー小説か一歩間違えれば恐怖ものの話にでてきそうな光景ね。でも…… 言ってることはあたしと大差ない……
何となく墓穴を掘った気分になって思わず形のいい眉をしかめる千夏。そしてひょい、と肩をすくめてしげみに足を踏み入れた。
ヒヤリ。
気温が下がっている。なにか大きくて冷たいものがこの先にあるに違いない、が…… あまり想像がつかない。大きめの氷かドライアイスの塊でもあればこんな感じにだろう。でも、そんなもんを置いておくような理由が全く思いつかないし、そんなことをしてなんの利点があるのか見当もつかない。 意を決してもう一歩踏み出す。
ザクッ、と足元の草が音を立てた。霜がおり、半分凍ったような感触が足の裏にした。少し向こうの草かげに青白いものが見えかくれする。
なんだろう?
千夏の足音が聞こえたのか、その青白いものに何か動くような素振りが見えた。未知のものに対する恐怖心と好奇心が千夏の心に沸き上がり、そして好奇心がわずかに勝ったようであった。
それ、がみえるところまでもう一歩足を踏み出していた。真夏の犬。そう、暑さにあえいで舌を出し、ゼイゼイ荒い息をはいている奴だ。唐突に千夏はそんなことを思い出した。彼女の目の前に今の想像と同じことをしている大型の獣がいた。青白と銀を足したような色合いの毛並みで、その真っ青な瞳には高い知性の光と濃い疲労感が見て取れた。全体的なスタイルは犬……というよりは狼。獰猛さと高貴さを兼ね備えた姿をしていた。そして冷気のもとはこれのようであった。
青銀の狼が千夏をジッと見つめた。その澄んだ瞳にあきらめのような色が浮かぶ。
〈私もここで終わりか…… 氷の魔狼たる私が異界で朽ち果てるとは……〉
寂しそうな声が千夏の頭の中に響く。しかし彼女にとって狼が喋るとは常識の範囲外であった。
「う、うわぁっ! しゃべった!」
驚いて一歩後ずさる。そんな千夏の様子を見て狼も(おそらく)驚いたような顔をした(のだろう)。その表情が消え、懇願するような視線を千夏に向け、再び心に語りかけてきた。
〈娘…… 私の言葉が解るのか。解るのなら頼む。私を助けてくれ。〉
「助けて…… くれ?」
この狼のセリフと様子を見る限り、どうやら自分に助けを求めているらしいことは千夏にも理解できた。が、いったい何をすればいいのやら……
(どうしよう……)
困惑もまじってか、ふと一歩後ずさる。見なかったことにして帰ろうか…… という考えも頭をよぎる。
が、なんとなく千夏はこの言葉をしゃべる暑がりな狼を助けてあげたい気になった。俗に言うところの「同病相憐れむ」てやつである。
「どうしたら…… いいの?」
〈…………〉
「ねえ……?」
気まずい沈黙が流れる。千夏の言葉に狼はなにも返事をせず、小首を傾げるような動作を見せた。
「もしかして……」
〈もしかして…… そこの娘、私の言葉をしゃべれないのか?〉
どう考えても一介の女子高生である千夏に頭に直接聞かせる言葉などしゃべれるはずがなかった。
〈その上、私はお前の言葉を理解できない……か。〉
「…………」
まったくの図星に千夏は何も言い返せなかった。
〈ともかく…… 私の言葉は理解しているようだが……〉
狼の困惑混じりの声に千夏は反射的にカクンカクンと頷き続ける。一瞬、狼が襲いかかってくるような気がしたためだった。そんな少女の様子にも目もくれず、考え込むように狼は目を閉じる。
〈会話が一方通行なのは許してくれ。〉
と半分近くは千夏も原因であることを自分の責任のような口調でそう前置きしてから、丁寧かつ頼み込むような口調で千夏に話しかける。
〈正直言って私は今、お前の感覚で言えば死にかけている。ある事情で私はほとんどの力を使い果たしてしまったのだ。〉
フンフンと頷く千夏。自分を食べて力をつけたい、なんて言い出さないことを祈りつつ狼の次の言葉を待った。
〈私は冷気を司る者。我が命は氷や冷気で成り立っている。人間のお前からすると理解し難いと思うが事実だ。頼む。私をどこか気温の低いところへ運んでくれ。〉
「……はい?」
確かに千夏には理解し難い。しかもどう見ても小柄の部類にはいる千夏が下手したら二メートルはありそうなこの狼を運ぶことができるのだろうか。そんな千夏の心の中の疑問を読み取ったのか狼が言葉を続ける。
〈私の命をお前に預ける。今から私は最後の力を使って剣の姿をとる。その姿ならお前にも運ぶことができるだろう。〉
「い、いきなりそんなこと……」
うろたえる千夏の前で狼は全身から白い煙を上げ始めた。気温が下がってくる。その中で狼の輪郭が崩れ、それが何かの形に固定していく。
そしてそれは一本の剣になっていた。長さは千夏の身長よりも少し長いくらい。刀身は目のさめるような青。まるであの狼の瞳のように深い青色だった。全体は優雅な曲線を描き美術品といっても過言ではない美しさがある。柄の部分は綺麗な細工のほどこされたもので、女性、それも千夏のような小柄な人に合わせて作られたような感じだった。
「あ、あのー。ちょっと…… 狼さん?」
返事はない。
「どうしよう……」
ゴロンと横になった剣を前にしばし。そして気付いた。その青い刀身が徐々に曇っていることを。
剣が…… あの狼が…… 死にかけている。何となくそう理解した千夏は反射的に剣の柄を掴んだ。そして走り出す。
運動神経に偏りはあるが、それを支える体力とスピードにはそれなりに自信があった。ここから全力で走れば数分もしないうちに千夏の家に帰ることができる。そして彼女には剣になった狼の言った「気温の低いところ」にピッタリな所を知っていた。
走りながら気付いたのが、剣の異常なまでの軽さだった。どう見ても金属でできているとしか思えない剣が、その見かけとは裏腹に…… そう、言い方を変えるなら「手にしっくりする」ような重さしか感じなかった。 そんなことはどうでもいい、と思いながら千夏は走る。
そして彼女の計算通り、三分ほどで家にたどり着いた。夕飯のおかずを買うために家の前に主婦が集まっている。威勢のいい声とおばさん達の声が奇妙な不協和音を見せる。子供の頃から見慣れた光景で別に驚くこともないが…… さすがに狼の剣なんぞを持っているとうかつに人前に姿をだせない。現にここまで誰にも見られなかったこと自体、半分奇跡みたいなものである。
「さて…… どうしようかな?」
彼女の家……大きく『佐々木精肉店』と看板のある店舗と住居がくっついているタイプのやつである……の前はそれなりに広くあいている。物陰に隠れながら様子をうかがいつつ、目立たないように家に入る方法を考える千夏。その後ろから、本人はそのつもりは無いのだろうが、彼女にとって驚かすように声が緊迫感の無い声がかけられた。
「よー千夏。何やってんだ?」
「ひゃあっ!」
一瞬飛び上がってから、無意識の内に背中に剣をかばうように隠していたことに気付いて慌てて声の主の方からも隠すように剣を動かそうとするが、すでに時遅しであった。
「なんだい、そのでっかい剣?」
「あ、あの、これ……」
普段はこの腐れ縁の幼なじみの一樹陽二相手ならいくらでも言いくるめる自身のある千夏だが、色々考え事があったせいで思わず取り乱してしまった。そこをまた陽二に突っ込まれる。
「らしくねーなー。なんだぁ? またお前んとこの部室からこっそり借りてきたのか?」
「そ、そーよ、そう。今度の舞台で使う小道具なのよ。」
それなりに運動神経と体力の発達している千夏は運動部から誘いが多かったのだが、全て辞退して演劇部に入っていた。彼女に言わせれば正しいフォームやルールを覚えるのが面倒くさい、ということらしい。が、これまた陽二に言わせれば、千夏は帰宅部なのがいちばん平和である、ということだ。ウインタースポーツ系の部が彼らの学校に無いのは幸運なのか不幸なのかは知らない。 ちなみに陽二は弓道部に所属していて、それなりに女の子のファンも多い人気者であったりする。練習の帰りなのか、肩に和弓を入れた細長い袋をかけている。
苦しい言い訳とは思いつつも、とりあえず落ちつく事のできた千夏はふと、剣に目を落とす。 刃の曇りが全体に広がり、細かいひびがうっすらと走り始めている。
まずい。
千夏の焦りが強くなった。陽二を相手にしていただけで致命的な状況になったのかも知れない。
「えーと、どうしよう……」
急ぎたいのはやまやまだが、さすがに好奇心旺盛のおばさん達の前をこんな目立つ剣を持って通りたくはない。しかし時間はない。
「ちなつー、なにやってんだ?」
「ちょっと、あんたは黙って…… 陽二っ!」
言いかけてガバッと陽二に詰めよる。
「な、なんだよいきなり。こんなところで愛の告白か?」
「するかっ! そんなことよりその袋、貸しなさい!」
「ふくろ……ってこれ?」
千夏の指さした先に陽二の弓袋がある。和弓自体が下手すると子供の身長くらいはある。それをしまう袋なのだから…… というわけである。
「早く! 急いでんのよ。」
「あ、ああ……」
弓袋の中から弓や弦を半ば取り出したところで千夏が強引に弓袋を奪うようにひったくる。それに狼の剣の刃の部分を隠すようにしまうとそのほかの荷物を陽二に押しつけた。説明を求める彼を完全に無視してまた千夏は走りだした。
店の冷凍庫! そこまで行ければ…… あの狼の言った「気温の低い」という条件を満たす事ができる。
冷凍庫、と一口にいっても千夏の家の店のものはちょっとしたアパートの一室よりも大きいくらいの巨大なやつである。レストランとかにも卸す関係上、生半可な大きさではない。そして、小さい頃からの千夏の避難場所でもあった。
運よく、怪しい袋を持って走っている事を近所のおばさんに見咎められたが、それ以上突っ込まれる事無く、店の裏の冷凍庫にたどり着くことができた。
もう時間がない。そう千夏は思った。下手すると戦車砲の一撃でも壊れそうにない丈夫な扉を一気に引き開ける。中の冷気が空気中の水蒸気を水滴に変え、まるで煙のように噴き出してきた。まるでディナーショーの気分である。
どういう例えだ、と自分自身にツッコミを入れながら零下三十度の世界へ入る。そう、バナナで釘が打てそうな温度だ。さすがに、今日は暑い中(千夏の主観で)走り回って汗をかいた後に急に体を冷やしたから多少は寒く感じる。が、すぐに慣れる。
後ろ手に扉を閉め、明かりをつけた。中には豚だの牛だのがさばきやすい形で吊るされている。カチカチに凍らされているため、生臭い匂いとは意外と無縁だ。
陽二から奪うように借りた弓袋から狼の変化した剣を取り出す。それからが劇的だった。
不意に千夏は周囲の温度が上昇したような感覚を受けた。いや、と心の中で訂正する。これは逆に周囲の冷気が剣に吸収されている。そう理解した。
さっきまで刃の全体に渡っていた細かいひびが見る間に消えていく。くすんでいた色が真っ青の、あの狼の瞳を同じ色に戻る。
何とか間に合ったらしい。その安堵感にホッとため息をつく千夏。その息は白く、煙のように口をついて出た。
〈…………〉
わずかに何か、そう例えるなら呻くような声が聞こえたような気がした。
〈……う……〉
固唾を飲んで変化が起きるのを待った。剣がブルブルと震えるような動きを見せた。黙ってみているとその輪郭がぼやけてくる。狼から剣に姿を変えるときは冷気による霧でハッキリ見えなかったが、今回は場所が場所のため、形が変わる行程がよく見えたが……
「ちょっと不気味かも……」
金属質の剣が膨らむように変形していくのは面白い、という意見も出そうだが、見慣れない人にとっては気味が悪い以外の何物でもない。
その不気味な変形は実際のところ瞬きする間ほどの時間しか経っていない。次の瞬間には見覚えのあるあの狼の姿になっていた。
〈私は…… 助かったのか……〉
「そのようね。」 と、口にしてから言葉が通じないことを思い出した。
(そっか…… こっちの言葉は理解できないんだっけ……)
〈すまなかった。チナツがいなかったら私は朽ち果てていただろう…… 感謝の言葉もない。〉
「いやぁー、そこまで言わなくても…… ちょい待て。何であたしの名前を知っているのよ。」
心を読まれたか、と危惧しながら狼に詰めよる。
〈ふーむ、前半は恐らく私の言葉に対し、照れの表現だろう。すると後半は『どうして名前が分かったか?』というところか……〉
あ、なるほど。と千夏は少し納得した。見た目の様子で何となく判断しているらしい。名前の方もさっきの陽二との会話から推測したのだろう。
〈さっき、ヨージとかいう者がお前の名を呼んでいたではないか。〉
正解のようだ。
「しかし……」
千夏はこめかみのあたりをポリポリとかく。
「あたしの名前が分かっても…… この狼の名前が分からないとなぁ……」
しばし考える千夏。相手の知性は高そうなんだけどなぁ……
「千夏。」
そう言ってから自分を指さす。
「あなたは?」
そう言って今度は狼の方を指さす。
しばらく気まずい沈黙が流れる。
〈……私の名前を聞いているのかな?〉
ウンウン、と頷いてから狼の常識の中で頷きが肯定の意を示すのか、という疑問が思いついた。彼女の記憶では同じ地球の中でも頷きが肯定の意を示さない、という地域があったような気がした。しかし、それは取り越し苦労であった。
〈そうか、すまない。自己紹介がまだであったな。 我が名はレイファルス。氷雪を司る…… チナツの世界にこの表現があるかどうかは知らないが……精霊、という存在だ。〉
「精霊? ええと……」
運よく、か運悪く、千夏はその言葉に聞き覚えがあり、大体は理解できた。彼女や陽二の部屋の本棚のマンガや小説には「精霊」が登場するものも少なくない。扱いは様々だが、大体共通しているのは自然界のエネルギーにある種の知性が与えられている、ということだろうか。
その考えに照らしあわせるなら、このレイファルスと名乗る狼は氷や雪の精霊、と言うことになる。
〈元は…… この世界とは違うところにいたのらしいのだが、何らかのショックでここに飛ばされたようだ。……実は、それ以前の記憶がハッキリしないのだ。〉
「大変ねぇ……」
半ばひと事のように呟く千夏。しかし、この後、ひと事でなくなるとは予想すら出来なかったろう。
〈で…… 厚かましいようだが、一つお願いがあるのだが……〉
「は? お願い?」
〈うむ…… 実はチナツに私のマスターになって欲しいのだ。〉
「マスター……?」
何のことか理解できなくて首を傾げる千夏。それを分かっているのかないのか、同じ口調で淡々とレイファルスは言葉を続けた。
〈うむ…… 簡単に言うと、な。私は誰かに仕えていないと理性を失った一個の獣に成り下がる恐れがあるのだ。〉
「ほお……」
理由はわからんがそうなれば真っ先に困ったことになるのは自分だろう、と千夏は一人納得した。
〈というわけで、私が仕えるべき主になってはもらえぬか?〉
「なんであたしなんかが……」
特技は寒さに強いことぐらいなのに、と内心思ったがレイファルスはしつこく食い下がった。
〈理由を聞いているのか? 多分そうだろう……〉
千夏が頷いたのをみて言葉を続ける。
〈もとより私は精霊なのだからな、マスターも精霊使いかその素質のある者の方が良い。
チナツは私の言葉を理解できる。つまりそれは精霊使いとしての素質があるということだ。精霊と交信する方法さえ身につければ多くの精霊の力を…… 無論、私の力も借りることができよう。〉
「そう言えばそうよねえ……」
望む望まないに関わらず、とりあえず千夏はレイファルスの言うことが聞こえるのだから彼の言うところの「素質」があるのだろう。
〈まあ…… もう一つくらい理由を挙げれば…… この精霊力に満ちた部屋はチナツの所有、またはそれに近いようなものであろう? 私も存在が存在故、このようなところがある程度自由に使えたら……〉
「…………」
一瞬期待したんだけどなぁ…… と嘆息する千夏。確かにこんなのにとってはこの冷凍庫は有り難いんだろうな。まるで金だけを目当てにした男に言い寄られたような気分ね、と経験もないのに変な例えをする千夏であった。
〈どうだろう、チナツ?〉
「そうねぇ……」
暴れられても困るし…… 何か不都合があるわけでもなさそうだし……
少しの間悩んだ後、千夏は頷いた。
〈よろしいのだな。〉
「別に…… いいわよ。」
相変わらず言葉は通じていないようだが、ニュアンスは通じたらしい。レイファルスは安堵の息をついた。
〈ならば、一応しきたりみたいなものがあってな…… 私と同じように言ってくれ。〉
「いいわよ。」
あんなのにも社交辞令みたいなのがあるのね。と千夏はくだらない感想を抱いた。そして次からの言葉を聞きのがさないようにレイファルスの方へ耳を傾ける。
〈まず…… 『我、精霊の契約をもって汝と契約を交わす者なり。汝レイファルスの名をして誓いをたてよ。我が名……』 ん? チナツがフルネームか?〉
いーや、と千夏は首を振る。とりあえずボディランゲージ以外にコミニュケーションが成り立たないのも結構大変である。
でも…… はたからみるとアブナイ人に見えかねない、とちょいとばかり危惧していた。
〈ま、とにかく、『我がなんとかの名をもってこれを命ずる。』 もう一度言うか?〉
「いや、いいわ。えーと……」
ファンタジー小説にはありがちなやつである。それを大量に読んでいた千夏にとってはそんなに憶えるのに苦労はしなかった。できるだけ厳かになるように立ち上がって青銀の狼と相対した。
「『我、精霊の契約をもって汝と契約を交わす者なり。汝レイファルスの名をして誓いをたてよ。我が佐々木千夏の名をもってこれを命ずる。』 どう……?」
返事のかわりにレイファルスは千夏の足元に鼻をつけるようにして朗々と語り始めた。
〈我が名はレイファルス。氷雪の魔狼にて冷気を司る者。我が尊厳と名誉、そして汝の名ササキチナツをもって汝に仕えることを誓おう。〉
「ほう……」
かっこいい、と声に出さず千夏は呟いた。かがんていたレイファルスがスックと立ち上がる。とはいっても二本の足を使ったわけがなく、四本の足でのことだが。それでも千夏の膝の位置よりも高いところに肩(?)がきている。
〈ではよろしく頼む。マスター。〉
「…………」 千夏は無言で首を振った。その意味が分からなく首を傾げる。
「ち・な・つ、よ。」
千夏は他人に仕える、ということも嫌だが、それ以上に他人を仕えさせる、という考え方はもっと嫌いだった。一瞬、千夏の剣幕におされたレイファルスだが、すぐその顔に理解の表情が広がる。
〈わかったチナツ。 ……チナツは私の…… 前のマスターに似ている。〉
「前の?」
まるで独り言のように呟くのを千夏は黙って聞いていた。
〈あまりハッキリ覚えていないのだが、気が…… いやいや、元気な娘でな。今はどうしているのだろう……〉
一瞬の沈黙は「強い」という言葉を飲み込んだに違いない。
「女の子?」
〈チナツ同様に名前で呼ぶようにいつも言っていた……〉
フッ、と寂しそうにレイファルスは目を伏せた。それを見て千夏はレイファルスがこの世界で一人ぼっちであることを思い出した。
「とりあえず…… 言葉を覚えさせるのが先決ね。」
何かさせていれば寂しさもごまかせるだろう。そんなことも考えたかどうかは知らないが、有無を言わせぬうちに千夏はレイファルスを自分の部屋に引っ張っていった。
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